第五部 少年少女 (1951年)
第一幕 静かな闇
学校の窓 フラッシュのような光
不気味に静まりかえった闇
埃が充満し何も見えない
細い光が差し込む
第二幕 少年少女
原爆投下後
何が起きたのか誰もわからない
学徒動員=開墾作業・軍需工場・家屋疎開
蛆が身体を蝕む畳は一日で真っ黒
生き残りの67年
「なぜうちの娘ではなくあなたが生き残ったの」
生きていることを恥じた
原爆症 子供への不安
「生き残ってごめんなさい」から「生かされているへ」
地獄を回想し語る力
伝え 死者を生かす
継承への長い道のり
第三幕 新しい風
次世代の風が吹く
自然は優しくときに厳しく
黒い雨 原発 放射能
川に浮かぶ死者たち
満ち潮引き潮にゆらぐ
津波に呑まれた 家 人々
そして何もなくなった
手をつなぎ共に生きる
繰り返さないで 忘れないで
頭上に輝く 死者の祈り
見守り導く 強き想い
輝く未来へ
『学徒動員』
広島原爆の死者14万人中、6千余人を占めるのが中学、女学校の1、2年生・12、13歳の少年少女である。当時、広島では市の中心部の住民を強制的に立ち退かせ、道路や空地を造る作業が行われていたが、この主力が、通年学徒動員にまだ行っていない低学年の子どもたちだった。家からシャベルやクワなど重い道具を担いで作業地に集合、炎熱の中、働いていた少年少女たちは、路上にいたため、全身に大火傷を負い、「水を、水を」と苦悶の末に死んでいった。少し遠い作業地(1㌔半くらい)で生命の助かった子どもたちは生まれもつかぬケロイドが身体に残った。平和公園の南側を東西に突き抜ける100m道路は、こんな子どもたちが造った道なのである。
関 千枝子
当時、広島県立広島第二高等女学校2年生・13歳。当日、欠席したため生存。
「広島第二県女二年西組ー原爆で死んだ親友たち」著書
関千枝子×中山士郎 対談随想